『神去(かむさり)なあなあ日常』を読み終えたところだ。

テーマが林業ということもあり、
かねてから読みたかった作品。
一気に読んだ。

 高校を卒業した若者が、自分の意思とは関係なく
 山村で林業研修生として働くことに。
 山仕事、村での暮らしを通じて体験したこと、思ったこと

作家・三浦しをんさんが、
独特のざっくばらんな文体、かつ綿密な描写で書いたフィクションだ。


林業について、木工家である私が思うこと。

木工をやっている人って、
案外「森からの距離」が遠いものだ。
これは、木材の流通経路が少々複雑ということもあるし、
用いる材料の多くが、海外からの輸入材ということもある。

かくいう私も、その例外ではなく、
森からの距離が遠いなぁと感じている。

でも。「それでいい」とも思っている。


近すぎると見えなくことって、けっこうありませんか?

木工品を例に挙げると。
林業の業者さん自身が企画して作る木工品が、
市場ニーズとかけ離れていることがよく指摘される。
その原因は、リサーチ不足とセンスの欠落だけでなくて。

“木の声”を聞きすぎているのかもしれない。
木という素材そのものを“生かしすぎている”のかもしれない。

だから、木は“単なるマテリアル”として、
産地とはそれなりの距離を置いたほうがいいのではないか?
近くにせよ、遠くにせよ、その距離は慎重に計っていきたいと考えている。


話の角度を少し変えて。

木は生きている。
生きている以上、殺生しなければ使うことはできない。

よく、ご年配の方に、
「トリをシメてるところを見て以来、鶏肉が食べられない」
そうおっしゃる方がいる。
その気持ち、よくわかる。

以前、大木を製材する作業を見たことがある。
直径1.5メートルはある木が、
大きなバンドソーで割られるさま。
もちろん、その木は成仏したと思うが、
見方によっては、大木が悲鳴を上げているようにも感じられた。


そのとき考えたこと。
「分業の大切さ」
もちろん、分業の第一義は、効率の良い仕事をするため。
そして、人間ひとりが習得できるスキルに限界があるからだが。

こういうふうにも解釈できるんじゃないか?
分業によって生じる職域は、その道のプロがそれぞれ、
雑念なく仕事に徹するための
境界線のようなものを作ってくれているのでは?


『神去なあなあ日常』の物語のなかに、
森の大木を切り倒し、山から降ろす神事をえがいたシーンがある。

それは、村の選ばれし者に許された、厳粛なる儀式。
私には加わる資格はもちろん、見る資格さえないだろう。


この世はボーダレスな方向へ進んでおり、
私もその恩恵を享受している。

そんな時だからこそ、
おのおのの領域について、再考する必要があるのかもしれない。

その物語に書かれた闊達な人たちと、
心温まるシーンのなかに散りばめられた
「林業の神聖なる領域」を強く感じたからだ。


■2011/03/28■

    

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Illustration:Motoko Umeda
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